無料ブログはココログ
フォト

オンライン状態

経済・政治・国際

2008年7月 9日 (水)

アメリカ米国のはじまり

アメリカ米国のはじまり

大陸会議では連合規約(Articles of Confederation)が準備され、新しいアメリカ国家を納めるための最初の憲法として1781年に採択されました。この頃はまだ個々の州が強い権力を持っていたため米国連合会議という中央機関に力はなく、税制はおろか州間取引を調整する法律すら制定できませんでした。

イギリス13の植民地はアメリカ合衆国設立後に州となりましたが、それぞれの足並みは全く揃っていませんでした。George Washington、Alexander Hamilton、James Madisonや他の政治家たちはこの憲法による政治に満足できず、1787年に憲法制定会議が開かれ、ここで初めて新しい米国憲法が制定されました。アメリカ各州をとりまとめるには統率力のある強い政府が必要だったからです。
新しい憲法は、まず3つの政府機関を設け、三権分立を取り入れました。それが、Executive Branch(行政機関)、Judical Branch(司法機関)、Legislative Branch(立法機関)です。

Executive Branchは最高責任者としてここに米国大統領を置き、法の遵守を監督し、米国国民は4年毎に大統領を選出することになります。Legislative Branchは新しい法律を作る最高機関で、Senate(上院)とHouse of Representatives(下院)の2つから構成され、これを米国議会(Congress)と呼んでいます。Senateには、それぞれの州から議員を2人選出して送り込むことがでます。House of RepresentativesはSenateよりも多くのメンバーから構成され、各州の人口に比例して代表者の数が決められます。人口の多い米国州は、人口の少ない州よりも代表者を多く選出することができるわけです。 Judical Branchは、最高裁判所(Supreme Court)と他の連邦裁判所から構成されます。


George Washington
(1732-1799) 1787年9月17日、米国代表者たちはこの新しい憲法に署名しました。米国13州のうち少なくともアメリカ9州の賛同を得なければなりませんでしたが、まず最初に9つの州が合意し、1789年にはアメリカ合衆国初代大統領としてGeorge Washington(在職期:1789-1797)が選出され、後に彼は"Father of This Country"と慕われました。1790年までには全ての州が新しい憲法に署名しました。新しい米国憲法は権利章典が欠如していることに数々の指摘を受けましたが、紆余曲折の後に1791年11月に10条からなるBill of Rights(権利章典:米国人民の基本的人権に関する宣言)がようやく唱えられました。

George Washingtonの大統領就任式は1789年4月30日にニューヨークで行われましたが、この時米国首都をどこに置くかはまだ決まっていませんでした。その後、憲法制定会議などが行われたペンシルバニア州フィラデルフィアに臨時的に首都を構え、最終的に現在のワシントンDCに米国首都建設計画が進められることとなったのです。
出合い系ファン

新しい米国首都は1793年に礎石が置かれ、7年後の1800年4月に、未完成ではありましたが米国首都としての機能を果たし始めました。ワシントン・コロンビア特別地区(Washington District of Colombia)という名称が与えられたのは1796年のことです。
米語(英語)挫折しない学び方

2008年7月 8日 (火)

角栄と浪花節

 田中角栄は子供の頃、体が小さい上に吃音がひどくて、それが原因で近所の悪童たちにずいぶんいじめられたという。小学校の5年生の頃は学校に行くのがいやで、腹痛が起して、担任の先生に雪道を担がれて家に帰ったこともあった。不思議なことに、家に帰って囲炉裏端に坐ると腹痛はすぐに収まった。

 父親がそれに気付いて、「嘘をつくな」と叱り、角栄を裸にすると、吹雪の中に放り出した。角栄はそのとき、父親に殺されるのではないかと思い、雪の中を裸で逃げ回ったという。それから角栄は父親が怖くて、学校を一日も休まなくなった。しかし、吃音は治らない。あいかわらず、いじめは続いた。

 あるとき教室で、いたずら小僧が角栄に石をぶつけておきながら、自分で「痛い」と叫んで、角栄を犯人に仕立てたことがあった。教壇にいた先生は、「田中かっ!」と怒鳴りつけた。しかし、興奮した角栄は余計に吃音がひどくなって、抗弁しようにも声が出ない。角栄はくやしくて硯を思い切り教室の床に投げつけたという。

 吃音は歌をうたうとき影をひそめた。そこで角栄は歌うようにしゃべることを心がけた。そして、節を付ける話し方を身につけるために、小学校の講堂で催される旅回りの芸人による浪花節を聴きに行った。夜間のことだから、担任の先生の許可をもらって出かけたのだという。

 記憶力のよい角栄は、一度聞いただけでその文句や節回しを覚え、さっそく翌日教室で復唱して見せた。同級生たちは角栄の浪花節にひきこまれ、毎日昼休みになると聞き惚れたという。担任の金井先生はのちに新聞にこう語っている。

「とにかく、とほうもない記憶力でした。浪曲などにはまったく興味を持たない、若い教師の私でしたが、ひと晩であれだけのことを頭に詰め込めるとは、驚きというより言いようがありませんでした」

 浪花節を覚えることで、角栄は吃音を克服した。しかしそれだけではない。角栄はこうしてクラスの人気者になり、自信を身につけることができた。芸は身を助けるという諺の通り、その後も角栄は浪花節によって人生のピンチを救われることになる。

 角栄は昭和21年3月の戦後第一回の衆議院総選挙に地元から立候補するが、聴衆の前に立つと動悸がたかまり、酒も飲んでいないのに真っ赤になって力むので、つかえる癖が出て、まったく演説にならなかった。ある時など、「皆さん」と大声をあげたものの、すかさすヤジられて、そのまま立ち往生した。
「演説がからっ下手でねえか。なにをいいてえのか、分からねえでがん」
 ヤジられると言葉が出ない。言葉が出ても、訥々としていて、迫力がまるでない。

 有力な3人の後援会員は金だけ受け取ると、一人はそのまま角栄を見限って他の陣営に走り、二人はその金で何と自分たちが立候補した。角栄は結局彼自身の他に3人分の選挙費用を負担することになった。宣伝カーも持たない彼は運動員がメガホンで「田中角栄です」と怒鳴りながら歩く後ろを、ただ歩いていくだけだったという。当然ながら、見事に落選した。

 しかし背水の陣で臨んだ翌年の総選挙で、角栄は脱皮した。角栄はこのとき、誰も行かないような山の村にまで足を運び、浪花節の心で人情味のある身近な話をした。
「みなさん、家族を大事にしましょ。家族を大事にしねと、この国はようなりませんよ。家族の誰かがこの田中でねえて、別の候補に入れるというても、喧嘩しねでくんなさい。誰も見ていねから、そっと田中と書いてくんなせて」

 田中は演説に、自分が子供の頃から吃音で苦労した話とか、貧乏と戦ってきた話を、しみじみと語りかけたという。これが浪花節を愛する貧しい人々の胸にじかに響いた。これまで、新潟三区は地主などの上流階級の代議士しかいなかった。そうした中にあって、高等小学校しか出ていない牛馬商を父親に持つ28歳の角栄が、みごとに3万9千票あまりをとり、11人中3位の好成績で当選した。

 この選挙には、意外な助っ人たちがいた。後に有力な政治家を輩出することになる早稲田雄弁会の学生達である。どうして彼らが手弁当で角栄の応援に駆けつけたか。その裏に美談があった。津本陽さんの「異形の将軍」(冬幻社)に書いてある話を、あしたの日記で紹介しよう。

<今日の一句> メジロ二羽 なにやら楽し 琵琶の花  裕
出合い系ファン
 妻がミカンを切って琵琶の木に吊した。そこにメジロがやってきた。どうやらつがいのようだ。居間のソファからガラス越しに彼らの生き生きとした可愛らしい仕草が見える。しばらく、妻と二人でバードウオッチングに興じた。
米語の学び方~社会人の方へ

あだるとADALT無料AV、DVD

角栄と雄弁会

 田中角栄が初当選した昭和22年の総選挙で、角栄を応援する角帽かぶった学生達の姿が人目をひいた。彼らは早稲田大学雄弁会の学生達だった。
出合い系ファン
「国破れて山河あり。われわれはこの難局を家族あい寄って生きぬかねばならない。民族は家族によってかたちづくられ、民族の象徴は天皇制である。社会主義革命を説くとは何事だ」

 どうして早稲田大学の学生が角栄の選挙を応援するために新潟までやってきたかというと、彼らは角栄に恩義を感じていたからだという。戦後、早稲田大学の校舎は老朽化し、あるいは戦争中に焼夷弾で焼かれたりなどして、雨漏りで授業ができないほどだった。大学は業者に修理を依頼するが、どの業者もろくな仕事をしようとしない。

 何しろインフレがすごいので、資財の値上がりを待っていたほうが儲かった。そんなとき角栄の会社が契約通りの価格で仕事を請け負ってくれた。こうしたことがあったので、早稲田の学生は田中角栄に恩義を感じていた。また、彼という人物を信用したのである。こうして早稲田大学雄弁会と田中角栄のつきあいが始まった。

 角栄が政界で頭角を現しはじめると、早稲田大学雄弁会からも有力な政治家が輩出することになった。竹下登、小渕恵三、海部俊樹、森善郎、渡部恒三、三塚博、青木幹雄、深谷隆司、玉沢徳一郎、額賀福志郎、山本有二、柳本卓司、松永光など総理大臣、閣僚経験者をふくむ40以上の国会議員を出している。特に小渕恵三首相の内閣では、雄弁会が日本の政治をハイジャックした感さえあった。

 同じく早稲田大学出身の田原総一郎は「日本の政治」(講談社)の中で、「田中政治は角栄が首相に就任して以来、30年も、この国を完全に仕切り、生き続けているわけだ。あらためて、田中派出身の主な実力者たちを並べると、二階堂進、竹下登、金丸信、梶山静六、小沢一朗、羽田孜、渡部恒三、奥田敬和、橋本龍太郎、小渕恵三、野中公務、青木幹雄、綿貫民輔など、興味深いことに旧帝大卒、官僚経験者は一人もいない。田中角栄は、文字通り旧帝大卒が牛耳っていた田中以前の政治構造を叩きつぶしたことがわかる」と述べている。参考までに、竹下登以下、歴代の首相を上げておこう。

 竹下  登 早大
 宇野 宗佑 神戸商大
 海部 俊樹 早大
 宮沢 喜一 東大
 細川  護 上智大
 羽田  孜 成城大
 村山 富市 明大
 橋本龍太郎 慶大
 小渕 恵三 早大
 森  喜朗 早大
 小泉純一郎 慶大
あだるとさいと

2008年4月21日 (月)

日本の今と田中角栄

 最近の私の日記は、まるで田中角栄に汚染されてしまったようだ。実は書きたいことが角栄の他にもあるのだが、ここは辛抱して、角栄につきあっている。しかし、できればあと数回で終わりにしたいものだ。
出合い系ファン
 何故角栄に拘るのかということだが、それは立花隆さんの「田中角栄がわからないと、日本の政治の今はわからない」という言葉に集約されている。もう少し、立花さんの文章を引いてみよう。

<今の日本の政治に起きていることを本当に理解しようと思ったら、さまざまな意味で、角栄政治、角栄の時代に立ち戻ってみる必要があるということである。そこまで立ち戻ってみないと、小泉改革がなぜ必要になったのかわからないし、小泉改革がなぜうまくいかないのかも分からない>(「田中真紀子研究」立花隆)

 この立花さんの本の中に、角栄のスポークスマンであった早坂茂三秘書の書いた「鈍牛にも角がある」の文章が引用されているので、孫引きしておこう。もと新聞社の政治部記者だけあって、角栄型政治の実態がわかりやすく要約されている。

<角栄は戦後政治そのものである。角抜きでは戦後政治は語れない。とりわけ昭和47年7月の政権獲得から同60年2月、脳梗塞で言葉を失うまでの間、田中は日本政治の「主人公」だった。田中内閣に続く三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘の政権までを「三角大福中」と呼ぶ。ところが、その実質は「田中角栄の時代」だったのである>

<悪党・田中の力の源泉は最盛期で143人に達した数の威力である。今一つ、角栄は役人操縦術の家元であった。官僚国家、官僚主義ニッポンは、霞ヶ関のスーパーテクニクラート大集団の協力がなければ立法、行政ともに一センチも進まない。この役人達を田中は自在に動かした>

<持ち駒の主力は大蔵、建設、郵政の三省である。私の親方は田中軍団を一糸乱れず動員して、自分が操縦できる表の政権を作った。国家予算はじめ、政権党のあらゆる政策決定過程に介入し、衆参両議員、大がかりな地方自治体の選挙戦は事実上、自分が取り仕切った。「角影」「直角」「田中曽根」など、田中支配の時代にマスコミが使った形容詞は、歴代政権と田中の関係、距離を端的に表現している>(「鈍牛にも角がある」早坂茂三、光文社)

 私は戦後政治を知る上で、もう一つ大切なのは、ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」に書かれている「マッカーサーの時代」だと思っている。田中角栄が一段落ついたら、ふたたび、こちらに戻りたいと思う。吉田や岸といった、田中の一つ前の世代の政治家が何を考え、戦後日本についていかなる国づくりを目差していたか、それがどう田中角栄の時代につながっていったか、そのあたりのことも調べてみたいと思っている。
米語(英語)挫折しない学び方

2008年4月20日 (日)

日中国交回復の裏面

 昭和47年9月1日、角栄はハワイでニクソン大統領と会談した。二日後の共同声明で、「日中国交回復は世界の緊張緩和に役立つ」とうたわれ、田中は日中国交回復に向けて、アメリカのお墨付きを得た。こうして、角栄は9月25日に中国へ旅立つことになった。

「日本の総理大臣として行くのだから、土下座外交はしない。国益を最優先して、向こうと丁々発止とやる。いよいよとなったら決裂するかも知れないが、その責任は俺がかぶる」(佐藤昭子「私の田中角栄」)

 角栄は日中国交回復の旅に出れば、生きて帰れないかも知れないとひそかに心構えをしていたという。その頃、「国賊・田中角栄」のビラが街中に貼られ、右翼が街宣車を連ねて、官邸周辺で吠え立てていた。角栄の演説会場で、刃渡り30センチの刃物をもった男が逮捕されたり、いきなり車の前に飛び出して寝ころぶ男や、田中事務所に「あわせろ」とどなりこんでくる男もいた。
出合い系ファン
 角栄が北京に旅立つ日には、血判書つきの抗議文を懐に、猟銃と刃物で暗殺を企てた右翼の青年が警察に逮捕された。実際に田中首相暗殺計画があったようである。台湾との関係を絶ち、共産主義の中国と仲良くしようというわけだから、右翼は反対する。しかし、こうした中で、田中は世界の情勢を見据えて、この決断をした。

 周恩来との会談はかなり厳しいものだったらしい。焦点は台湾問題だった。台湾を中国の一省だと主張する周恩来にたいして、同行した高島条約局長が厳密な法律論を展開して、これに反対した。これに対して、周恩来は日中国交回復問題は政治問題で、法律問題ではない。高島は法匪だとまで言った。田中もこれに対して言い返した。

「賓客にまねかれ、供の従者を非難されたときは、主賓にも帰れと言われたことになります。それが日中共同の文化ではないのですか」
 これに対して、周恩来は日本軍が何年、どこの戦いで、何万人殺したと、数字を際限なく上げはじめたという。田中の血圧は200をこえ、鼻血を出すほどだったが、持ち前の粘り腰で望み、希望を棄てなかったという。

「おれは周恩来にこう言ったんだ。今はあなたにとって大きなチャンスですよ。日本では会社と交渉するときは、トップが交代して新しい社長と商売するのが、一番有利なのです。新しい社長には社内の期待もあって、大きな裁量の幅を与えるからなのです。私は今、日本という会社の新しい社長なのだから、あなたにとって大きなチャンスなんです、とね」(野上浩太郎「政治記者」)

 こうしてとにかく交渉は妥結した。このときすでにガンにおかされていた周恩来は、10年来医者から禁止されていて口にしなかったマオタイ酒で乾杯し、田中の一行を毛沢東のもとへ案内したという。
「もうけんかはすみましたか。けんかはしなくてはいけません。けんかをして、はじめて仲良くなるのです」
 毛沢東は角栄に声をかけ、二人は固い握手をした。このとき角栄のみではなく、随行した大平や二階堂まで毛沢東との対面を許されたのは、中国側の破格の厚遇だったという。

出逢い系サイトの選び方 

2008年4月18日 (金)

ロッキード検証

ロッキード謀略説の検証
 評論家の田原総一郎は「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」(「中央公論1976年7月号)の中で、ロッキード事件は田中角栄を失権させるためにアメリカがしくんだ謀略だと書いている。田中真紀子をはじめ、多くの人が田原のこの論文を読んで、謀略説を信じている。しかし、立花隆は「田中真紀子研究」の中で、田原の論文を「内容的には噴飯もの」と一蹴している。

 謀略説の根拠は、チャーチ委員会に届けられたロッキード関係の内部資料が「誤配」によるものだというが、そんな馬鹿な話はなくて、これは何者かが意図的に仕組んだに違いないということだった。ところが、実際は資料は誤配されたわけではなく、委員会が正規の手続きでロッキード社から入手したものだという。だから、そもそも謀略説の前提が成り立たない。
出合い系ファン
 どうしてこうした事実誤認がまかりとおったのだろう。それは最初アメリカの新聞の第一報に「誤配」と書かれたためらしい。新聞社はこれが間違いだと知って、数日後には小さな訂正記事を出したが、日本の新聞ではこれを報じなかったものが多く、そのまま「誤配」が事実としてひとり歩きしてしまった。立花隆は、「日本では今でも郵便物誤配説を唱える人が多くて困ってしまいます」と書いている。立花隆の文章を引用しよう。

<日本人はロッキード事件は、田中角栄事件だと思っているけど、全くそうではありません。あの事件は世界数カ国にまたがる、とてつもない広がりをもった前代未聞の航空機商戦の汚職疑惑なわけです。国はイタリア、フランス、ドイツ、オランダ、スペイン、スウェーデン、インドネシア、フイリピン、トルコ、イラン、メキシコ、コロンビア、ナイジェリア、サウジアラビアなどにまたがり、ひっかかった人間の中にはイタリアのアンドレオッチ元首相、オランダのユリアナ王女の夫君、ベルンハルト殿下、ドイツのシュトラウス元国防相、スエーデンの空軍司令官よいった人まで含まれています。角栄の資源外交をつぶすために、それだけスケールの大きな事件を謀略として起こすなど不可能なことはあの事件をグローバルにとらえる目を持っている人には疑問の余地なくわかることです>

 謀略説ではその中心人物としてキッシンジャーを持ち出すが、実はキッシンジャーは日本への資料提供に反対していたのだという。証拠として、当時国務長官だった彼がレビ司法長官にあてた文書がそれで、そこには「高官名を控えられたし」とちゃんと書いてある。つまり、キッシンジャー謀略説は完全なガセネタだったわけだ。それではそのガセネタの出所はだれかというと、通産省の役人から角栄の秘書官になった小長啓一らしい。

<角栄の資源外交というのは、実際のところ彼が中心になってやったもので、それが角栄がつぶれるとともにしぼんでしまったので、口惜しかったのでしょう。どこかでああいう妄想をしゃべりまくったら、それ田原総一郎の耳に入って、田原がそれを針小棒大にかきまくったら、それを信じる人がたくさんでてきたということです>(「田中真紀子研究」 立花隆)

 田原総一郎の「アメリカの虎の尾を踏んだ角栄」のゲラは事前に中央公論から小長啓一のもとに回ってきた。小長はこれは書きすぎで、「手を入れないといかんかな」と思ったが、田中角栄が「大筋いいんじゃないか」ということで、出版されたという。このことを小長自身が「発掘田中角栄」(新潟日報)のなかに書いている。

 田中はその後、ゲラを読んだことはおくびにも出さず、はじめて読んだふりをして、この本に書かれたアメリカ謀略説を自ら触れまわったという。こういうところもまた、いかにも角栄らしい。それにしても評論家の言うことも、政治家や役人同様、あんまりあてにならないということがよくわかる。

 何故そうなるのかというと、彼らにオピニオンリーダーとしての自覚や責任感がない上に、知性が粗雑だからである。したがって、不利な状況に置かれても、あくまで自説に固執して、自分の誤りを認めようとしない。視野が狭く、客観精神に乏しい日本のジャーナリズムや報道番組では、人気取りのための我田引水と、その場しのぎの言い逃ればかりが横行している。そうした中で、立花隆の文章には、ひときは良質で誠実な知性が感じられる。
出逢い サイト選び

2008年4月14日 (月)

派閥政治の毒

 昨日の日記で書いたように、自民党には大小の派閥がある。その中でも、田中派(経世会)と福田派(清風会)は相反する政治傾向を持っている。田中派が経済成長優先だとしたら、福田派は財政優先主義というふうである。出合い系ファン

 ひとつの党に、こうした傾向の違うグループが存在することで、自民党は活力を保ってきた。そしてその派閥の長がつぎつぎと総裁・首相になることで、ある意味で擬似的な政権交代が行われてきた。そしてその総裁・首相のもとで、派閥均衡人事が行われ、それぞれの派閥がその特色を出して、政策を補完し合うことになる。

 しかし、派閥政治には重大な弊害がある。それは首相が派閥の長たちの密室の談合で決められることが多いということだ。そしてひとつの党が相反する政策を持っているので、国民は選挙で政策を選択できないことになる。つまり、民主主義が正常に機能しない。

 さらに、派閥均衡人事のために、内閣として政策を統一することがむつかしい。たとえば田中派の建設大臣は景気回復優先で動き、福田派の大蔵大臣が財政優先で動いた場合、内閣は相互に矛盾する政策を同時に実行することになる。自動車にたとえれば、アクセルを踏みながら、同時にブレーキをふんでいるようなもので、ガソリンばかり使いながら、車は前に進むことが出来ない。

 実はこうしたことが、これまで自民党政治の派閥政治の縦割り行政で行われてきた。バブルが崩壊して、失われた10年が11年、12年になろうとしているが、依然として日本経済は動き出さず、その間に空しく消費された燃料費は累積して莫大な借金になっている。この先も、自民党主導の派閥政治が続く限り、この窮地を脱することはむつかしいだろう。
米語の学び方~社会人の方へ

2008年4月13日 (日)

角福戦争

 戦後日本の政治をリードしてきた自由民主党には大小の派閥があるが、その中で最も際立っているのが、次の二つの流れである。
①吉田派→佐藤派→田中派→竹下派→小渕派→橋本派
②岸派→福田派→安部派→三塚派→森派(小泉)

 この両派の違いは、現実主義者で実利を重んじる田中と、行動に慎重で思慮深く論理的な筋を通す福田の政治手法の違いに典型的に表れている。財政についても、田中は「日本列島改造論」に見られるような経済成長優先の積極派で、一方の福田は財政の健全化を心がける慎重派である。
出合い系ファン
 開放的で庶民的な田中は、平和尊重と民主主義優先のハト派であり、官僚出身の福田はエリート志向が強く、森首相の「神の国」発言にも見られるように、天皇制にシンパシーを感じる保守主義者で、アメリカに追随しながらも、伝統的な精神的価値を重んじるタカ派だといえる。ちなみに石原慎太郎は福田派の出身である。

 これに「宏池会」といわれる官僚中心の政治集団の流れがある。頭脳が明晰で、プライドが高く、評論家としては一流だが、政治的パワーに乏しく、俗に「お公家集団」と呼ばれている。大平が田中の盟友だったこともあり、田中派と連合することが多かった。自らは吉田派直系の保守本流を自認している。
③吉田派→池田派→大平派→宮沢派→加藤派

 この他、三木派、中曽根派などが加わり、自民党内部で派手な政争が繰り広げられてきた。とくに昭和47年7月5日の総裁選は「角福戦争」と呼ばれ、戦後日本の政治史に残る大激戦になった。どうしてそうなったのかというと、佐藤首相が自分の派閥の実力者であった田中角栄をでなく、実兄である岸の後継者の福田を推したからである。そして福田の次は中曽根という密約までして、田中を自民党総裁・首相の座から遠ざけようとした。

 これに反発して、田中は佐藤から独立して田中派を作り、総裁選に臨んだ。さらに中曽根が田中につくというハプニングがあって、田中は福田陣営に逆転して勝利した。総裁選の後、佐藤首相は演壇で田中の会釈にも答えず、首相官邸の庭で開かれた新総裁祝賀パーティにも顔を見せなかったという。首相退任の記者会見では「テレビはどこだ」とブチ切れて、全国民の前で醜態を演じることになった。

 佐藤が3年後に脳溢血で急逝したとき、田中もすでに金脈問題に火がついて、首相を辞めていた。佐藤危篤の報で駆けつけた田中は、「こんなふうになっちゃって」といいながら、佐藤の手を握り、体を撫でまわしたという。それからまわりの医者や看護婦の一人一人の手をとって、「オレじゃどうしょうもない。頼むよ、頼むよ」と懇願したという。葬儀委員長は田中が務めることになった。

 ところで中曽根はなぜ、佐藤や福田を裏切って、田中に走ったのか。田中から巨額の金が流れたせいだという説もあるが、中曽根は「日中国交政策」が決め手だったと言っている。岸、福田は親台湾派だった。これに対して、田中角栄は親中国の立場だった。そして中曽根も中国との国交樹立を望んでいた。中曽根が田中支持を決断したのはこうした政治的立場からの判断だという。

 田中と福田の違いは、日米安保条約に対する姿勢にも表れている。福田や岸があくまでアメリカに追随し、安保条約を国是として継続させようとしたのに対して、田中は70年代にはこれを堅持するが、80年代は見直しも考えられるという微妙な発言をしている。アメリカ一辺倒ではなく、外交や軍事、エネルギー政策などで日本の独立性を高めるべきだという現実的で柔軟な姿勢だった。

 首相になった田中はこうした考えのもとに、中国を訪れ、歴史的な「日中国交回復」を実現する。中東戦争が勃発しても、田中はかならずしもアラブ敵視に走らずに、ヨーロッパや東南アジアを歴訪し、独自の資源外交を押し進めた。このことがアメリカの怒りに触れて、「ロッキード事件」を仕掛けられのだという説がある。

 立花隆は「田中真紀子研究」のなかで、合理的な推理に基づいてこの説を一蹴している。私も「ロッキード事件アメリカ政府謀略説」はとらない。しかし、アメリカの司法当局が、三木首相の要請に快く応じたことは事実である。これを機会に、田中を叩き、日本を叩いておきたいという意図がアメリカ政府にあったことはたしかだろう。
あだるとさいと

2008年4月12日 (土)

お金と地位

 田中角栄はどんな相手でも、「サシの勝負に持ち込めば絶対に負けない」と豪語していたそうである。しかし、そんな角栄の交渉術も時には通じないことがある。政治評論家の藤原弘達を相手にしたときがそうだった。
出合い系ファン
 1969年に、藤原弘達が出そうとした「創価学会を斬る」という本の出版を妨害したと言うことで、創価学会が世論の批判を浴び、ついに池田大作会長の国会証人喚問まで要求されるような事態が起きた。そこで、当時自民党の幹事長だった角栄が調停に乗り出した。

 角栄は藤原弘達を料亭に呼び出して、本の出版をやめるように説得する。まさに、角栄の得意とする「サシの勝負」である。立花隆が直接藤原から聞いた話として、その時の角栄の言葉を「田中真紀子研究」の中で紹介しているので、そのまま引用しよう。

「いくらほしいんだ。いくらでもほしいだけ、相手に出させる」

「お前は何になりたい。何でもなりたい地位につけてやる。政府や公的機関の役職でも、大学のポジションでも、なりたいものがあったら言ってみろ。どういう地位にでもつけるようにしてやろう」

「よしわかった。それでは、こういうことではどうか。ここで田中角栄の願いを聞いてくれるなら、それを自分の一生の恩義とする。そしてこれからの生涯、何時、何でもいいから、田中にしてもらいたいということが出てきたら、そのとき何でも言ってくれ。それが何であれ、自分はその望みをかなえるために全力をつくし、必ずそれを実現してやることを誓う」

 藤原弘達はさすが甘言に屈しなかったが、その迫力には圧倒されたという。
「政治家田中角栄のすごさの秘密をかいま見せてもらったよ。うじうじ理屈なんかこねないで、いきなりストレートにグイグイくるんだ。相手の欲望がどこにあるか見抜こうとして、直接的な表現でくる。ちょっとでも世俗的欲望があるやつなら、たちまち見抜かれて、コロリといっちまうんだろうね」

 田中は珍しく交渉に失敗するが、しかし、これによって池田会長とは、電話一本でいつでも話せる気の置けない間柄になった。こうして、田中は野党とも信頼関係を築いて、日本の政界で他を圧する存在感を持つようになった。転んでもただでは起きないところが、いかにも利に聡い角栄らしいところだ。
あだるとADALT無料付AV、DVD

2008年4月11日 (金)

金権政治の終末

 人間の体は飢餓には強いが、過食には弱いといわれている。氷河時代を含む何十万年に及ぶ人類の歴史は、おおよそ飢餓との戦いの歴史だった。飽食などということはありえなかったので、人間の体はそれに対応できるシステムをもっていないのである。

 このことは社会についてもあてはまる。日本の社会システムは貧乏をどう克服するかということで動いてきた。政治家のまず第一に考えることは、いかに国民を飢えさせないかだった。こうした貧乏な時代には、田中角栄のような政治家は力を発揮する。しかし彼は繁栄の時代の政治家ではなかった。
出合い系ファン
<角栄は国家を窮地から立ち直らせるための政策には、きわめて強かったが、繁栄が高じて景気が暴走しはじめると、ブレーキをかける手段をしらなかった。彼の政治家としての経験のなかで、国家の繁栄をくい止めなければならない事態に、遭遇したことがなかったからである>(「異形の将軍、田中角栄の生涯」津本陽)

 田中角栄が首相となった昭和47年(1972年)には、まさに日本は「繁栄」の時代に入っていた。47度予算は前年を2兆4千億以上うわまわる12兆1千億をこえ、もちろん史上最高の額である。カラーテレビの受信契約が白黒テレビを抜き、冷蔵庫の普及率は97パーセントに達した。GNPの伸び率は、この一年間で、3.4パーセントから5.3パーセントに跳ね上がっている。

 公定歩合は5回に渡って引き下げられ、あまった金が土地投機に注ぎ込まれた。こうした中で、田中角栄はさらに景気を過熱させるアクセルを踏み続けた。47年9月14日の閣議は、青森県六ヶ所村の石油コンビナート建設を、列島改造第一号に決定した。ふたたび、津本陽さんの本から引用しよう。

<土地ブームの波に乗り、全国各地でふしぎな動きがあらわれていた。知事、市長など地方の首長と親しい企業主らが、突然、坪当たり10円にもならない野原のようなところを買いあさりはじめる。畑にもならない荒れ地を買って、なにをするつもりだろうかと思っていると、そこに四車線の道路工事がはじまり、地価が百倍にも値上がりするという、おどろくべきことがおこり、その結果、地方財閥はこえふとる>

 これによって土地が高騰し、インフレが進行した。大豆60キロの末端価格が3000円から5倍の15000円に急騰し、黄色いダイアと呼ばれた。「インフレは、日本列島改造が原因でおこった」という野党の主張が庶民の心をとらえはじめた。こうして選挙に強い田中が首相として迎えた47年12月10日の総選挙で、自民党は議席を26も減らして、271議席になった。結党以来最低の議席数である。一方で共産党が14議席から40議席へ大躍進した。

 翌年になると、さらにインフレに拍車がかかった。卸売り物価指数がじりじりと上がり続け、庶民の暮らしを直撃した。5月1日、国税庁が47年度の高額所得者を発表したが、それによると上位百人のうち94人までが土地成金で占められていた。田中内閣の支持率は、62パーセントから27パーセントに急落した。あきらかに国民は田中型の政治にあいそをつかしていた。そしてこの年の10月6日に中東戦争が起こる。

 10月23日、メジャーのエクソンとシェルが原油価格を30パーセント値上げすると通告してきた。11月になると主婦達が、トイレットペーパー、石鹸、洗剤の買いだめに走り出した。このころから、田中角栄は持ち前の明るさが消え、「だんまりの角」さんになってしまったという。顔面神経炎を患い、答弁の言葉が不明瞭になった。顔のゆがみがだれの目にもわかるようになった。

 翌年国土庁は49年1月1日現在、地価公示価格の上昇率は33.4パーセントで史上最高だと発表した。卸売り物価の上昇率は35パーセント、これは終戦後なみの暴騰だった。これを受けて、49年7月の参議院選挙でも自民党は惨敗し、過半数を割り込んだ。福田蔵相と三木副総理があいついで辞任。三木は記者会見で「金権体質の徹底改善」を要求した。

 この年49年10月9日に文芸春秋11月号が発売された。そこに掲載された立花隆著「田中角栄の研究・その金脈と人脈」と児玉隆也著「淋しき越山会の女王」は大きな反響を呼んだ。角栄は事前にゲラを読み、文芸春秋に圧力をかけたが、角栄の意向を無視して発行された11月号はまたたくうちに売り切れた。これによって、田中角栄は決定的なダメージを受けた。立花隆はインタビューでこう述べている。

<こんなことになるとは思いませんでした。何というか、老いさらばえたロバが、荷物をいっぱい背負ってヨタヨタしているところへ、ワラを一つかみのせたら、バッタリという感じですよ。田中さんにとっては記事の中身よりも読者の受け止めかたにショックをうけたのではないでしょうか>(10月29日、夕刊フジ)

 退陣を決意した田中が前首相の佐藤栄作に挨拶に行くと、佐藤は「君が首相になったときは、マスコミは今太閤といって拍手を送った。ところが文春が出たとたん、金権だ金脈だといって、古い話をタネに非難をはじめた。だが、そういって非難する財界も、自民党の他の幹部も、無責任じゃないか。・・・しかし君はまだ若いんだぜ。いくらでも将来はある」」と励ましたという。

 田中角栄は11月26日、退陣を表明した。これでいったん世論の追求が下火になりそうだった。しかし、こんどはつぶてがアメリカから飛んできた。51年2月4日の朝、ワシントン米上院外交委多国籍企業小委公聴会で、ロッキー社のコーチャン氏が、同社の賄賂についての文書を公表した。その中でロッキード社から賄賂を受けた政治家の一人として、田中の名前を上げたのだ。

 このあと、田中角栄がどういう道をたどったか、それは日本の政治にとって最悪のシナリオだといってもよい。田中軍団はさらに戦闘意欲をたかめ、角栄は「闇将軍」となって、さらに10年間日本の政治を壟断し続けた。田中流利権政治はその後も改まらず、その結果が80年代に再びバブルを生み出した。90年代にこれが弾けて、いよいよ日本全体がいま闇の中に沈もうとしている。
米語(英語)挫折しない学び方

2008年4月10日 (木)

田中角栄システム

 田中角栄は側近に、「学者は駄目だ。世間知らずだ。それよりも役人だ」と言っていたという。日本の官僚の優秀さを彼は理解していた。そして、日本が役人の力で動いている国だと言うことも知っていた。側近の早坂秘書は「籠に乗る人・担ぐ人」でこう書いている。

<田中は、役人の正、負の特徴を仔細に知り、以後、手足のように彼らを動かした。役人の苦手なアイデアを提供、政策の方向を示し、失敗しても、責任を負わせることはしなかった。心から協力してくれた役人は、定年後の骨まで拾った。入省年次を寸分違わず記憶し、彼らの顔を立て、人事を取り仕切った。角栄についていれば損はない。角栄の経験、才幹と腕力、それに役人の知識、ノウハウがドッキングして、相乗効果を発揮した>
出合い系ファン
 角栄は大蔵大臣時代、盆暮れのボーナスのほかに、自分のサインの入った現金入り封筒を幹部職員に配り、役人はこれを「別封」と呼んでいたという。額は百万単位だったそうだが、もちろんこの金を受け取らないと天下り先も世話をしてもらえない。つまり、骨を拾ってもらえない。

 角栄は金を受け取らない人間を自分の敵と見なして決して信用しなかったそうだ。金を受け取った人間は、自分の子分として、天下り先も親身になって世話をする。そして、天下り先を確保するために、特殊法人や公団を次々と作っていく。そのつけが、巨大な財政赤字であり、そして官僚の腐敗となって現在、日本の国を破滅へ導くとしているわけだ。まさに、角栄の恐るべき遺産である。

 角栄は役人を手足のように使って、自分の政策を推し進めた。役人も又、活躍の場を与えられて奮起した。しかし、一方で角栄は金権と利権のシステムで役所を汚染し、日本の官僚組織を堕落させ、骨抜きにしてしまった。

 役人の骨を拾うのは特殊法人への「天下り」だけではない。実は、もっとおいしい天下り先がある。それが、「国会議員」「首長」だ。これは、「天下り」というより、「天上がり」というべきかもしれない。その結果、国会議員や首長の少なからぬ部分が、官僚OBで占められることになった。

<かって参院は、知性と良識の府だといわれていたのですが、ある時期から、知性と良識とはほとんど無縁の巨大労働組合、巨大宗教、巨大職業団体(医師、薬剤師など)、巨大利益擁護団体(軍恩連、遺族会など)など、巨大団体のオンパレードのようになり、その中でも、国内最大組織である日本国の官僚組織代表がグループとしては最大の議席を持ち、戦前の貴族院に官僚OBがぞろぞろ並んでいたことを彷彿させるような状態になってしまったのも、角栄全盛時代にはじまっているのです>(「田中真紀子研究」立花隆)

 建設省、農水省、自治省、運輸省、大蔵省、郵政省、警察庁がいずれも参議院に4人以上の議員を出している。厚生省や防衛庁などの他の省も複数の議員をだしている。田中角栄は自分になびく官僚を各省庁の族議員として、次々と国会に送った。そしてとうとう日本の政治を壟断し、今日の「政・官・業」の癒着した、どうにもならない利権と腐敗の状況をつくりだした。

 こうした金権と利権の体質の中で、戦後の日本は発展した。田中角栄の「だれをも幸せにするシステム」は右肩上がりの経済成長を生み出し、米国でさえうらやむような平和で豊かな魔法の世界を作り上げた。しかし、その幻想はいまや崩れ、バブルとなって弾けた。

そして現在日本を破滅の瀬戸際に追いつめている700兆になろうとする巨大な財政赤字が残され、すさまじい勢いで増殖しつつある。その温床となっているのが、角栄の築き上げた金権と利権の社会システムである。これを打破し、金権と利権によらずに、「人々が幸せになるシステム」を築くことが、ほんとうの政治改革である。
出逢い系サイトの選び方 

2008年4月 9日 (水)

田中角栄の錬金術

 田中の金権金脈でいつもやり玉にあがるのが、信濃川河川敷買い占め事件であろう。地元民から洪水で苦しんでいるという苦情を受けた角栄は、「そんなに困っているのなら、オレがその土地をみんなかってやろう」ともちかける。

 そうして地元民が喜ぶような値段で、土地をまとめがいする。そので終われば美談だが、このあとが角栄らしいところで、政治力を使って、そこに立派な堤防を作り、橋を2本もかける。こうして1億円で買った土地が、時価700億円の土地に大化けした。

 まさに驚くべき錬金術である。もっとも、この錬金術は、彼が官僚に圧倒的な支配力をもつ政治家だからできたことだ。建設省事務次官だった高橋国一朗は新聞のインタビューに答えて、こう述べている。
出合い系ファン
<田中さんと官僚の関係ですか。やっぱり僕らは道路財源を確保するガソリン税法などを通じて、田中先生に大変な恩義を感じていますから。頼まれたことはできるだけ協力するのにやぶさかではなかったですね。私に限らず建設省としてですね>(「発掘 田中角栄」新潟日報)」

 つまり、ここでも角栄は地元民に恩を売り、しかも自分はしこたま利益を手にしている。角栄はこのようにして、選挙民の苦情を解決して、圧倒的な支持を得ると同時に、自分はその何倍もの利益を手にしていた。

 田中角栄は道路族といわれる議員のドンだった。道路、橋、トンネル、港湾設備、ダムなど、角栄は建設省のやるすべての仕事ににらみをきかせた。そのかわり、官僚をあつくもてなした。建設省関係の特殊法人をたくさんつくって、そこに建設省関係のOBを次々と天下りさせていった。さらには、多くの建設省OBを田中派から選挙に送り出した。そして田中派は建設大臣のポストを握り続けた。

 地元民、官僚、政治家、そして建設業者のだれもが得をするシステムである。田中派の代議士は選挙のたびにこれらの人々の献身的な協力によって当選を続た。こうして日本の政治を独裁した。田中派はときには「田中軍団」と呼ばれ、彼はその「将軍」とも「天皇」とも呼ばれたが、国民からは「今関白」と呼ばれて親しまれた。田中派の代議士は彼を「オヤジ」と呼んで慕った。

 彼は当時の多くの人々にとって幸せをもたらす「福の神」だった。しかし彼が築き上げた金権・利権のシステムの中で、人々の心から貴重な何かが確実に失われて行った。後世の歴史家は彼をどう評価するだろう。彼こそ日本人の心を堕落させ、国を「亡国」へと導いた元凶だと指弾するのではないだろうか。
出逢い サイト選び

田中角栄の政治のやり方とは

2.角栄の政治手法
 角栄がいかにやり手の政治家であったかということは、政治の私的側面である、利害の調整にもよく現れている。彼の手法は一口に言って、「だれにも得をさせる」ということだった。その双方においしい思いをさせるのだから、彼は双方から感謝され、愛されることになる。

 そしてその交渉を成立させる中で、自分自身もちゃっかり名声と地位と富を築いていった。しかし、いったいそんな魔法のようなことが可能なのだろうか。それができたのである。具体例を見てみよう。
出合い系ファン
 1971年、彼は通産大臣のとき「日米繊維交渉」を成功させている。当時アメリカは対日貿易赤字に悩んでいた。そこで繊維製品の自主規制を日本にせまってきた。しかし、このアメリカの要求を飲むことはできなかった。日本の繊維産業が黙っていなかったからである。

 佐藤首相はこの問題を解決するために、大平、宮沢という実力派の政治家を次々と通産大臣に任命し、交渉に当たらせたが進展がなかった。そこで最後の切り札として、懐刀の田中角栄を登板させたわけだ。田中はさっそく単身アメリカに乗り込み、電光石火、あっという間にこの難問を解決してしまった。

 田中の解決策とは、アメリカの要求を「ほとんど丸飲み」することだった。これに日本の繊維業界は怒ったかというと、少しも反発しなかった。業界は莫大な損失補償を手に入れたからだ。

<角栄はこの問題は本質的に、外交の問題ではなく、国内政治の問題だと考えたんです。そのようなコペルニクス的転回をすることによって、問題の捉え方を、百八十度転換してしまったんです。

 要するに、これ以上アメリカと交渉をつづけていてもどうにもなるものではない。だからアメリカの要求は理不尽であるが、やむをえないものとして受け容れてしまおう。日本の外交の基本である良好な日米関係を築くと言う立場を貫く限り、それしか選択はない。

 問題は、それによって日本の業界が困ったことになり、損失が相当出るということだ。その損失補償を十分すぎるほど充分行い、民間が困らないようにしてやればいいではないか。基本はそういうことなんです>(「田中真紀子研究」立花隆)

 これにニクソン大統領はよろこんだ。このあと行われた佐藤首相の訪米に福田外務大臣とともに随行した角栄は最大限のもてなしを受けたという。歓迎の昼食会のとき、ニクソンは角栄の肩を抱くようにして自分の隣りに坐らせたが、そこは本当は福田の席だった。親睦のゴルフ会ではニクソンは自分の運転するゴルフカートに53歳の角栄を載せ、その後ろを66歳の福田が徒歩でとぼとぼと歩くことになった。

 佐藤は自分のあとを福田に任せることに決めていた。だれもが田中が総理大臣になることを想像もしていなかった。しかし、これを契機に、田中の評価が大きく変わっていく。そしてついに1972年の総裁選では、キャリア、年齢、門閥、学閥、すべてにおいて勝っていたサラブレッドの福田をおしのけて、54歳の角栄が総理大臣の椅子に坐ることになった。

 ただこのとき田中角栄が使った金は80億円だったと言われている。これに対抗して、福田陣営も相当のお金を使った。まさに札びらの乱れ飛ぶ金権総裁選挙だった。角栄の一番古い公設秘書で、金の受け渡しなどを担当し、経理部門の統括者としてその実体を一番よく知っていた山田泰司は、角栄の死後こう証言している。

<田中政治が金権政治だといういろいろ批判もあるが、それは認めざるを得ないでしょうな。確かに罪悪だとも思う。しかし田中先生には学閥も門閥もなかった。何もない人が裸一貫から総能力を傾注してのしあがり、総理になった。その間に人と対抗していくために、あるていどの金も必要だ。金がなければそう急にも伸びられない。・・・金権政治は過程としては現実にあったが、いつまでも続ける人ではなかっただろう。金権政治と言われるものは、その時代としてやむを得ない一つのものであった、と考えざるを得ない>(「宰相 田中角栄の真実」篠田昭、講談社)

 田中にとって、問題解決とは、つまり双方に札束を握らせるということであった。それではそのお金はどこから来るのか。田中は早坂秘書に、「天下をとれば、金は向こうからやってくる」と言っていた。たしかに、自民党幹事長になり、総理になった彼のもとに、お金は向こうからやってきた。はるかアメリカからもやってきて、そのお金が彼の命取りになったわけだ。
米語の学び方~社会人の方へ

2008年4月 6日 (日)

田中角栄とは

 政治は二つの側面を持っている。ひとつは、国のあるべき進路を決め、そのために意志決定をするということ。これを政治の公的側面と呼ぶ。もう一つは、構成員のあいだの利害の調整である。これを政治の私的側面と呼ぼう。

 田中角栄はこの両面において、よきにつけ悪しきにつけ傑出た政治家だった。そこで、今日は彼の政治家としての歩みを、公的側面から見てみよう。角栄は政治家として、どんな理念をもち、どんな政策を持っていたか。また、そうした理念や政策や、政治家としての信念はどこから生まれたかということである。そのためには、彼がどんな生い立ちを持ち、どういう経緯で政治家を志したかを見ておかなければならない。

出合い系ファン

 田中角栄は大正7年5月4日に、新潟県刈羽郡二田村の古い農家に生まれている。高等小学校を卒業した昭和8年ころは不景気まっさかりで、適当な仕事がなかった。そこで、土方になる。収入は一日50銭だったという。

<現場には、おもしろいおじいさんがいて、私にこんな話をしてくれた。「土方土方というが、土方はいちばんでかい芸術家だ。パナマ運河で太平洋と大西洋をつないだり、スエズ運河で地中海とインド洋を結んだのもみな土方だ。土方は地球の芸術家だ>(「私の履歴書」田中角栄)

 角栄はこのあと16歳で上京し、土木会社の住み込み小僧をしながら夜学に通った。軍隊に行き、満州で初年兵の苦しみを体験し、戦地で結核を患い、内地の病院に送られるが、仙台の病院では1週間ほど危篤に陥った。しかし、彼は病を克服し、社会復帰すると猛烈に働きだした。25歳の時は「田中土建工業」を創設し、社長になっている。そして、この会社を足場にして、国政選挙に打ってでる。そのときこんな大きな夢を語っている。

「新潟と群馬の県境にある三国峠を切り崩してしまえ。そうすれば、新潟に雪が降らなくなって、新潟は雪の苦しみから逃れられる。切り崩した土は海に運んで、新潟と佐渡をつないでしまえ」

 その後、田中角栄は政治家として頭角をあらわし、自民党の幹事長になり、総理大臣にまで上り詰めるわけだが、その間、一貫して国土開発の夢を持ち続ける。山を切り崩して、日本国中に道路を造り、海を生み建てて国土を造成し、産業を振興させ、庶民に豊かな暮らしをさせたいというのが、彼の政治家としての理念と政策であり、そしてそのために彼はあらゆる手段を行使することをいとわなかった。

 彼が議員立法として成立させた法案は33件にのぼり、この抜群の記録はいまだに破られていない。そして、その法案の多くは「国土開発」とそのための「特殊法人」に関するものである。小泉改革で廃止が決定している「日本道路公団」「首都高速道路公団」「日本鉄道建設公団」「日本住宅公団」「本州四国連絡橋公団」など、すべて角栄が成立させたものだ。角栄は自分は一番法律に詳しい政治家だと豪語していたが、実績をみるかぎりホラではない。

 また、彼は誰も考えないことを考え、実行するアイデアマンでもあった。たとえば、彼が昭和28年に議員立法でつくった「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」はガソリン税を道路建設の財源にするというおよそ当時としては考えられない常識破りの法案だが、これが国土建設の基本的なシステムとして働き、現在にいたる道路建設に潤沢な財源を与えてきた。

 ちなみに2002年のガソリン税の総額は5兆5千億円である。防衛費の2倍をこえている。しかもこれは国の正規の予算ではなく、すべて特別会計である。これに一般会計の公共事業費が加わるわけだから、建設省と土建業界は笑いが止まらなかった。こうして日本は角栄が夢に描いた「土建国家」として発展し、未曾有の高度経済成長をなしとげることになった。こういう国の将来を作る背骨となるような法案を、まだ30代前半だった田中角栄が作り上げた。このあと田中は39歳で戦後最年少の郵政大臣になっている。

 角栄は日本の政治家には少ない夢を持ち、それを熱く語り、そしてそれを実現する手腕をもった政治家だった。戦後政治をつねにリードし、エネルギーに満ちた日本復興の立て役者だった。彼は火の玉のような男であり、日本を動かす強力なエンジンだった。田中はロッキード事件で倒れたが、彼の死後も彼の築いたシステムは生き残り、その結果経済が過熱して土地や株が値上がりし、とうとうバブルとなって弾けた。

 あとにのこったのは、国民に夢を語ることの出来ない矮小な政治家や官僚たち、そして彼らと業界の利権構造のなかで蓄積された目のくらむような国の財政赤字と、未来に展望を見いだせないしょぼくれた大勢の国民である。角栄なき後、政治家はだれも国民に美しい夢を語ることをしなくなった。彼らがやっていることはただの権力闘争であり、自分たちの私腹を肥やすことだけである。

 私は田中角栄が語った「日本列島改造」の夢をあるていど評価している。苦労人の彼が、自分の体験のなかから、幸せとは何かということを考え、そこか育まれた気宇壮大な夢である。しかし、残念ながらそこには人間の幸せに対するいくつかの誤解があった。

 そのことに気付かなかったことが、苦労人田中角栄の限界であり、それはとりもなおさず彼の語る夢に酔いしれていた私たち国民の限界だった。今必要なのは、もう少しましな夢を語ることの出来る、もうすこし上等な政治家なのである。そしてそのために必要なのは何か。それは国民や政治家がもう少し「幸福とは何か」を自分の頭で考えること、つまり「哲学」を持つことだろう。

(参考文献) 「田中真紀子研究」 立花隆 文芸春秋
         「田中角栄とその弟子たち」 久保紘之 文芸春秋
         「異形の将軍・田中角栄の生涯」 津本陽 幻冬社 
あだるとさいと

小沢一郎 略歴

昭和42年 3月   慶応義塾大学 経済学部 卒業
     4月     日本大学大学院 入学
昭和44年 12月     衆議院議員 初当選
昭和45年 1月 ~ 昭和46年7月   文教委員会 常任委員
昭和45年 11月 ~ 昭和50年2月   災害対策特別委員会 理事
昭和47年 11月     衆議院議員 当選(2)
昭和50年 12月 ~ 昭和51年9月   科学技術政務次官
昭和51年 12月     衆議院議員 当選(3)
昭和51年 12月 ~ 昭和52年11月   建設政務次官
昭和53年 1月 ~ 昭和55年5月   建設委員会 理事
昭和53年 1月 ~ 昭和53年12月   自民党 政調科学技術部会長
     12月 ~ 昭和56年12月   自民党 政調水産部会長
昭和54年 3月 ~ 昭和57年2月   自民党 岩手県連合会 会長
  出合い系ファン   10月     衆議院議員 当選(4)
昭和55年 6月     衆議院議員 当選(5)
昭和56年 12月 ~ 昭和57年11月   自民党 政務調査会 副会長
昭和58年 12月     衆議院議員 当選(6)
昭和58年 12月 ~ 昭和60年12月   議院運営委員長(2期)
昭和60年 12月 ~ 昭和61年6月   自治大臣 国家公安委員長
昭和61年 7月     衆議院議員 当選(7)
昭和62年 12月 ~ 平成元年6月   内閣官房副長官
平成元年 8月 ~ 平成2年1月   自民党幹事長(1期)
平成2年 2月     衆議院議員 当選(8)
平成2年 2月 ~ 平成2年11月   自民党幹事長(2期)
     12月 ~ 平成3年4月   自民党幹事長(3期)
平成5年 6月 ~ 平成6年11月   新生党 代表幹事
     7月     衆議院議員 当選(9)
平成6年 6月     懲罰委員会
平成6年 12月 ~ 平成7年12月   新進党 幹事長
平成7年 12月 ~ 平成9年12月   新進党 党首
平成8年 10月     衆議院議員 当選(10)
平成10年 1月 ~ 平成15年9月   自由党 党首
平成12年 6月     衆議院議員 当選(11)
平成15年 9月 26日   民主党に合流
平成15年 11月     衆議院議員 当選(12)
平成15年 12月 ~ 平成16年5月   民主党 代表代行

あだるとADALT無料付AV、DVD

2008年4月 5日 (土)

二大政党と小選挙区の長所と短所

二大政党制の長所

二大政党制は国民が政権の選択をしやすい、ということですね。A党かB党か、どちらかを選べばいいのだからわかりやすい。なにも大統領制にしなくても、政党の党首が事実上の首相候補なんだから、国会選挙=事実上の首相選挙、ということができます。

 また、政治的に安定しやすいのもメリットです。たくさんの政党がひしめきあっているなかでは、小政党がキャスティングボート(「ボード」ではありませんよ!)、つまり決定権をにぎるようになり、政治が小政党にかき乱されてしまう場合もあります。

 二大政党制では、どちらかの政党(あるいは政党グループ)が政権を単独で獲得しているわけですから、そんな混乱は起きません。

短所

出合い系ファン

一番問題なのは少数派の意見がなかなか入ってこないことです。少数意見を代表する政党を排除しているわけですから。

 アメリカなんかがうまいのは、がちがちの二大政党といいながら、政党内部の規律がゆるく(なにせ共和党の法案に民主党の議員が投票してもなにもとがめられませんから)、そうした面で二大政党を補完する少数意見が台頭しやすいことがあります。

 それから「死票」の問題ですね。死票というのは落選者に投ぜられた票です。小選挙区では獲得票数がたとえば35%くらいでも比較1位になれば当選しちゃうわけですから、そうなると65%もの人の思いがまったく無駄になってしまう。

 それに、そんな選挙区ばかりになってしまうと、獲得票数で50%とっていない政党でも辛勝に辛勝を重ねて圧倒的な議席を得ることも可能なわけです。これは問題ですよね。

 フランスでは、2回投票制というのをやっていて、1回目の投票で過半数をとった人がいなかった場合、上位2名で決選投票をやっています。これは死票対策としては有効です。時間はかかりますが。

 比例代表で復活当選、というのもわるくいわれがちですが、獲得票数が多い人に国会議員へのチャンスを開く制度ですから、これも死票対策としては有効といえますね。

米語(英語)挫折しない学び方

2008年4月 4日 (金)

中国の外交を考える

中国の「新思考外交」とは

 東アジア農場に、番犬のアメリカ君、ヒツジのニッポン君とウサギのタイワン君が仲良く暮らしている。ところが、すぐ近くに貪欲な無法者のシナ狼が出没しているので、気の抜けない毎日である。実際、ちゃらんぽらんなメンドリのホンコン嬢はすでに彼に誘拐され、いつ料理されるか分からない怯える日々を送っている。しかし、骨だらけ痩せっぽっちのホンコン嬢では満足できないシナ狼は、涎を垂らしてタイワン君とニッポン君を狙っている。ところが、農場を厳しくガードしている勇猛なアメリカ君の前では足も手も出ない。窮したシナ狼は、キバを隠して笑顔でアメリカ君とニッポン君に握手を求めてきた。最後の狩りとして美味しいタイワン君の捕捉に目をつぶって欲しい、その後は必ず改心してベジタリアンになる、とシナ狼は誓った。用心深いアメリカ君はこの提案に半信半疑だが、人のよいベジタリアンのニッポン君はこのシナ狼の「新思考外交」を善意と受け取り、期待を抱いているようだ。シナ狼がタイワン君を最後の御馳走として食べた後、約束通りにベジタリアンになってくれれば、自分もたまにうるさいアメリカ君の目を盗んで、近くの森に遊びにいけるかもしれない、とニッポン君はウキウキしている。

「新思考外交」は「遠交近攻」である

出合い系ファン

 今年、中国の指導層は衣替えした。人の食欲をなくさせるような渋面の江沢民から、人がよさそうに見える胡錦涛に代わった。彼はその顔にふさわしい対日政策を打ち出したのである。胡錦濤は国家主席に就任後、歴史問題への言及を控えるなど「新思考外交」をとり、小泉首相との初対面の時にも靖国問題に言及しなかった。実際、胡錦濤に強い影響力を持つとされる時殷弘・中国人民大学教授は、日中国民間の嫌悪感の増長は危険との理由で、「対日接近は最も必要であり、中国の安保、外交環境の改善に価値ある『迂回戦略だ』」(戦略と管理・二〇〇三年二号)と述べている。しかし、これを中国の「善隣外交」と取るのは、いささか短絡である。中国政府が対日接近を「迂回戦略」と考えているのは、反日の基本路線は変更しないと言うことだ。日本糾弾の中華愛国主義で支えられている中国が、反日を止めることはあり得ない。中国は靖国や歴史カードで日本をゆする手法をやめるのではなく、代理戦争に転換するだけなのだ。

 一連の歴史問題をめぐる中国の対日抗議、内政干渉には、絶えず日本国内の左翼グループが援護射撃を行ってきた。中国政府は直接大っぴらに日本を攻撃しないとすれば、彼等への支援を強めて行くだろう。それが中国人の手口なのだ。今年2月17日に台湾の国会議員・高金素梅が大阪地裁で靖国訴訟を起こした。彼女の母親は台湾の原住民だが、父親は反日中国人の退役軍人で、彼女の側近もすべて中国との繋がりの深い親中反日派である。このように台湾人を新たに加えた反日ネットワークで靖国神社に代理戦争を仕掛けている。こうして攻撃力を増強しながら、台湾と日本を離間させる巧妙な胡錦涛の対日政策は、江沢民の正面攻撃よりずっと陰険なのだ。

 「迂回戦略」は「遠交近攻」戦略である。二番目の敵を見方に引き寄せて、一番目の敵に集中攻撃するのだ。説明するまでもなく、中国にとって一番目の敵は台湾で、二番目の敵は日本である。超大国アメリカと緊密な同盟関係を結んでいる日本には簡単に手を出せないので、中国は当面、台湾併合に力を集中しようとしているのだ。胡錦涛政権はすでに国際社会で孤立化させている台湾に対する包囲網をさらにしぼり、台湾の活路を完全に断ち切ろうとしている。互いに民間感情がよく、安全保障上の利害も一致している日台両国の間にくさびを打ち込んで、離間させるのが「新思考外交」の狙いである。

後でじっくり料理する「新思考外交」

 「中国人民の感情を傷つける」として、中国が歴史認識問題を取り上げて日本糾弾を行うと、お人よしの日本人はすぐ「中国に対してそれほど悪いことをしたのか」と反省して詫びるが、中国が歴史認識問題で日本を非難するようになったのは、そう古い話ではない。中国はその時その時の内外情勢を見て、対日歴史カードを切っているだけなのである。

 中国は一九四九年の建国以来、「日本軍国主義の復活」という根拠のない反日宣伝を繰り返してきたが、この国にとっての最大の脅威は、「アメリカ帝国主義」と「ソ連修正主義」であった。中国にとって、七二年の日中国交正常化以前の日本は、「米帝の走狗」と軽視すべき存在にすぎなかった。七二年の日中共同声明や七八年の日中平和友好条約においても、中国は歴史認識問題に触れず、ソ連に対抗するため、日本の軍備拡大や北方領土返還に支持を表明したりして、日本の左翼親中派を慌てさせたこともある。八〇年代からトウ小平主導による改革開放路線が採られると、経済協力欲しさに日本に笑顔を振りまき、「過去」抜きの日中友好の空気が盛り上がりを見せた。

 だが、中国の対日姿勢はたえず変化する。トウ小平の後を継いだ指導者江沢民は、歴史カードを振りかざし、対日干渉を強化したのである。なぜなら、江沢民は権力基盤が弱かっただけでなく、共産党自体が権威を失っていたので、国民を団結させるために、社会主義に代わる愛国主義の宣伝を行わなくてはならなくなったからだ。それには、日本を糾弾するのが一番手取り早いやり方だった。日本の「過去」を責め立てることで、簡単に謝罪と資金援助を引き出せるのだから、これほど扱いやすい相手はいない。終戦五十周年にあたる九五年前後から、中国は反日教育を強化し、日中間でトラブルが発生するたび、歴史カードを振り回すようになった。国内では依然言論統制を行いながら、反日言論はオープンににしたのだ。

 こうして、「日本カード」をうまく利用してきた中国が、今度は善隣友好の新思考外交を打ち出したのは、時殷弘氏がいう「迂回戦略」への転換にすぎない。対日接近を「迂回戦略」と考えるのは、いかにも謀略にたけた中国人らしい発想である。「新思考外交」とは、美味しいタイワン君を頂いてから、後でニッポン君をじっくり料理するシナ狼の企みなのである。

出逢い系サイトの選び方 

続きを読む "中国の外交を考える" »

2008年4月 3日 (木)

公務員の魅力

公務員の魅力

出合い系ファン

 景気が回復し、雇用拡大と言うけれど、リストラ体質の染み付いた民間企業は、契約社員やアルバイトを増枠し、おいそれと正社員の採用は増やしません。
そこへいくと公務員は、正職員の安定採用が続いており、団塊の世代が抜ける、2006年、2007年は公務員になるまたとないチャンスです。民間に比べてあらゆる面で優越する公務員の魅力をご紹介しますので、ぜひご一読ください。

やりがい

民間が1企業の利潤の追求を最大の目的としているのに対して、公務員は公共の福祉や公共の利益達成のために社会貢献し、責任ある仕事に従事できることから人からは喜ばれ、とてもやりがいを感じることができます。また、政策立案・企画作りといったスケールの大きな仕事に従事し、自分の能力を存分に発揮することができます。

ステータス

バブル崩壊以降、民間企業の信用は大きく失墜し、身分が保証されている公務員は、親がなってほしい職業のアンケートでも毎年トップの座をキープしています。その高いステータスから、住宅ローン借り入れや、有名幼稚園の親子面接など、公務員で良かったと思える場面に今後幾度も遭遇するでしょう。

待遇

公務員は、土日を休日とする完全週休二日制の場合が多く、民間では死語となっている育休や産休も機能していますので、女性には絶対お勧めです。福利厚生や各種手当も充実しており、所得に関しては民間平均を10%以上も上回っていることから、待遇の面でも申し分ありません。また、研修制度が非常に充実しており、階層別の初任研修、中堅職員研修、監督者研修や欧米大学院への留学などもあります。さらに地方公務員は17年勤務すると「行政書士」が、国税専門官は23年従事すると「税理士」の資格が付与され、圧倒的に有利な退職金・年金制度とともに、老後の設計を万全にします。

 以上のように、仕事の三大要素全てにおいて民間より優れています。 出逢い サイト選び

2008年4月 2日 (水)

石原 慎太郎

出合い系ファン<>

東京都知事 石原 慎太郎(いしはら しんたろう)
【生年月日】 昭和7年9月30日(1932年)
【家族】妻、4男
【趣味】 ヨット、テニス、スキューバダイビング
【学歴】 一橋大学法学部卒業
【略歴】
昭和31年 「太陽の季節」により第34回芥川賞受賞
昭和43年 参議院議員初当選
昭和47年 衆議院議員初当選(以後連続8回当選)
昭和51年 福田内閣 環境庁長官
昭和62年 竹下内閣 運輸大臣
平成 元年 自由民主党総裁選に立候補
平成 7年 議員辞職
平成11年 東京都知事 当選(1期目)
平成15年 東京都知事 当選(2期目)
平成19年 東京都知事 当選(3期目)
米語の学び方~社会人の方へ

2008年4月 1日 (火)

東国原知事

 ようこそ、「知事の部屋」にお越しくださいました。

 昨年は、高病原性鳥インフルエンザが相次いで発生し、また台風の来襲が度重なりました。被害を受けられた方々には、心からお見舞い申し上げます。今後とも再発防止に向けた防疫対策の強化や、災害に強い県土づくりに積極的に取り組んでまいります。
 また、不適正な事務処理問題により、県民の皆様には、大変な御迷惑と御心配をお掛けしたところでありますが、私は一日も早い県政の信頼回復に向け、職員とともに誠心誠意取り組んでまいります。

出合い系ファン

 さて、我が国は、少子・高齢化の急速な進展、本格的な人口減少社会の到来、地球規模の競争の激化など、時代の大きな変化に直面しています。
 こうした中、本県は、産業振興、交通網の整備、中山間地域対策や子育て・医療対策など、様々な課題を抱えており、都市部との地域間格差が生じています。
 時代の大きな変革期にあって、地方を取り巻く厳しい環境の中、本県が着実に発展を遂げ、他の地域をリードする存在となるためには、前例にとらわれない柔軟な発想で、果敢に挑戦することと情報発信が重要であると考えています。

米語(英語)挫折しない学び方 出逢い系サイトの選び方  出逢い系サイト成功法 米語の学び方~社会人の方へ アダルトストアー あだるとADALT無料AV、DVD

 このようなことから、私は、マニフェストの実現に向けて、入札・契約制度改革をはじめとする県政改革の推進や、本県の将来を描く総合計画の策定等に努めるとともに、本県を国内外にPRしてまいりました。
 お陰を持ちまして、いろいろな県産品が人気を呼び、県庁舎には県内外から連日大勢の方が来訪され、さらには「宮崎」が全国誌のヒット商品上位にランク付けされるなど、本県は全国的に注目されております。
 また、昨年開催された「和牛のオリンピック」と言われる全国和牛能力共進会で、宮崎牛が実力日本一と評価されたように、本県は様々な分野で大きな可能性を秘めています。

 県勢をさらなる高みへと飛躍させるためには、県民の皆様一人ひとりが、本県の潜在能力を信じ、県づくりに積極的に参画することが何よりも大事です。私は、皆様とともに、県民誰もが安心して暮らせる新しい宮崎の実現に向けて、県民総力戦による県づくりを推し進めてまいりたいと考えております。
 

米語(英語)挫折しない学び方

皆様方の一層の御理解と御支援をお願い申し上げます。

2008年3月31日 (月)

福田靖男

昭和24年 3月  学芸大学附属小学校卒、戦争中の疎開のため群馬県群馬町金古小学校、大宮市南小学校、高等師範附属小学校、渋谷区猿楽小学校などに学ぶ
昭和27年 3月  麻布学園中学校卒
昭和30年 3月  麻布学園高等学校卒
昭和34年 3月  早稲田大学政治経済学部経済学科卒業、石油会社入社
昭和37年 3月  米国駐在(2年間)
昭和51年11月  退社し、衆議院議員秘書となる
昭和52年12月  内閣総理大臣秘書官(昭和53年12月迄)
昭和53年12月  社団法人 金融財政事情研究会理事(平成元年3月迄)
平成 2年 2月  第39回衆議院議員選挙当選(1期)
平成 4年 6月  衆議院外務委員会理事(平成11年10月迄) 
平成 5年 4月  日本スリランカ協会会長〔平成12年10月迄〕
7月  第40回衆議院議員選挙当選(2期)
平成 7年 8月  外務政務次官(平成8年1月迄)
平成 8年10月  第41回衆議院議員選挙当選(3期)
11月  自由民主党外交部会長
平成 9年 9月  自由民主党副幹事長
11月  日本イエメン協会会長〔平成12年10月迄〕
平成10年 8月  自由民主党財務委員長
平成11年10月  自由民主党経理局長
平成12年出合い系ファン 6月  第42回衆議院議員選挙当選(4期)
      7月  自由民主党政務調査会副会長
     10月  国務大臣内閣官房長官(森内閣)
         沖縄開発庁長官
     12月  国務大臣内閣官房長官(森改造内閣)
平成13年 1月  国務大臣内閣官房長官(第二次森内閣改造)
         男女共同参画担当大臣
      4月  国務大臣内閣官房長官(第一次小泉内閣)
         男女共同参画担当
平成14年 9月  国務大臣内閣官房長官(小泉内閣第一次改造内閣)
         男女共同参画担当大臣
平成15年 9月  国務大臣内閣官房長官(小泉内閣第二次改造内閣)
         内閣府特命担当大臣(男女共同参画)
     11月  第43回衆議院選挙当選(5期)
         国務大臣内閣官房長官(第二次小泉内閣)
         内閣府特命担当大臣(男女共同参画)(平成16年5月7日迄)
平成16年 6月  衆議院憲法調査会幹事
          日本スリランカ協会会長
      7月  (財)日本インドネシア協会会長
平成17年 1月  自由民主党新憲法起草委員会安全保障及び非常事態に関する小委員会委員長
      3月  (財)日本ユースホステル協会会長
      6月  (社)日本カヌー連盟会長
      9月  第44回衆議院選挙当選(6期)
         衆議院日本国憲法に関する調査特別委員会理事

出逢い系サイトの選び方 

2008年3月28日 (金)

自民党

出合い系ファン
自民党とは何か

出逢い サイト選び 出合い系ファン
 衆議院が解散されていよいよ総選挙の公示である。解散の頃は「自民党本部は『造反議員』とも結局手打ちするのではないか」という見方も根強かったが、結局本部は当初の方針を変えなかった。  

 

 

 

 

続きを読む "自民党" »

最近のトラックバック

2009年11月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30